昭和52年02月17日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 よくその人の内容、例えば久留米地区でよく、研修の時に言われますが、久留米の初代の石橋先生のご信心の内容を頂こうと言う様な事が、先生の信心の内容を頂こう、と言う様な事を申しますね。いうならば教祖様のご信心の内容を頂こうと。又は私共はよく三代金光様の御信心の、御内容を頂こうというふうに申します。なかなか内容と言う事は外に出ておりませんから、分からんのですね。その内容を段々頂かせてもらう。果たして教祖様の御信心の御内容というのは、何であっただろうかと。
 三代金光様の御信心の内容は、どういうものであったであろうかと。なら久留米の初代の信心の御内容は、という風に段々追求して参りますと、結局教祖様が現しておられる信心。三代様がそして又は石橋先生が現しておられる。それがまぁ御信心の御内容であろうとまぁ思う訳です。一口に言って、石橋先生の御信心の内容はまぁ信心辛抱だと。そこでその信心辛抱とはどう言う様な事かと、言う事をまぁ特に久留米地区では、久留米関係の先生方、信者全部がその信心辛抱と言う事について、研修いたします。
 そして段々まぁ分からせられる事は、成程始めの間は、信心辛抱とそれこそ絶えられない所を、絶えぬいておいでられた。所がその信心辛抱のいうならば、お徳というものはどう言う事になってきたかというと、もう辛抱をせんでもすむほどしの事。どの様な場合であってもね、それを辛抱せんですむほどしの、内容に高められておられるのだろうと思うのです。石橋先生は修行生中に、ちょっとした間違えやら、いけないことやらは大変厳しくお叱りにもなれば、教導もされたと言う事です。
 けれどもその修行生が、例えば大きな失敗などをいたしました時、は決してそれを責められる様な事はなかったと、受け賜っておりますね。結局自分の(弟子)の中にそういうお粗末、例えばご無礼な事があったり、失敗を致したり致します時に、もうあんたはそんな事したらもう破門にする、と言った様なのではなくて、そう言う事をご自身の信心の内容として、頂かれたのではないかと、まぁ私共は想像するのです。いうならばお詫びをされるのは、石橋先生が神様に対するお詫びでおありになった。
 私の子供が又私の弟子達が、まぁ私を親先生という、信者達がこういうご無礼なことになってまいりました。私の不行届きとしてお詫びをされたのであろう。昨日も研修の時に、まぁ色々お話をさせてもらった中で、信心の例えば度胸と言った様な事は、どう言う様な事だろかと。三代金光様のところに、戦後ある老夫婦が、ご参拝のおかげを頂いた。そして、息子さんの戦死のお届けをなされた。そしたら三代金光様が、私の祈りが足りませんでした、と仰ったそうです。
 もう2人のその年寄り両親が、もうまぁというてもう金光様のようなお方が、それほどまでに、子供のことを祈っておって下さったんだと。しかもその祈りが足りなかったと、もう仰った時に、もうこれ以上のおかげがあろうかと、まぁ老夫婦は思うたであろうと言うのです。たいがいな者が、口にはいわんでも、あんた方の信心が足りなかったからと。ね、あんたが日頃私の言う事を聞かんからと言った様な、風に表現をしたり、言う所いうたり思うたりする所ですけれども。
 私の祈りが足りなかったとして、お詫びをされるような、もうこんな素晴らしい度胸があるだろうかと言うて昨日はまぁ、私は話たことでした。皆さんが例えばおかげを落としたとか、受けられなかったという時にです、本当に私の祈りが足りませんでした、と言えない。これ私自身のことですけれども、いうならば、金光様のご信心の御内容というのは、そういうものであった。
 もうおかげをねね、受けられてそれこそ「信心には辛抱することが一番大切でございます」と仰るように、あらゆる難儀な思いをなさる時に、辛抱しぬかれていかれるうちに、思うこともなくなり、欲しいものもなくなるというほどしの、いうならば、我情も我欲もなくなるというほどしの、お心を開かれた。そこから生まれてくるところの、おかげにもうただ有り難うして、有り難うして、お礼を申し上げておいりますのじゃと。しかもそのお礼の足りないお詫びばかりを痛しておりますと。
 私は金光様の御信心の御内容は、そこだとこう思います。教祖様の御信心の御内容というのは、やっぱり和賀心におありになったと思うです。どちらに転がしても有り難いね。どんあ場合であっても、それを有り難いと受けていけば、この方の道は有り難い有り難いで開けた道じゃから、苦労はせんとおっしゃるような、教祖のお言葉をいうならついて出てくるのは、そういう御教えばかりである。いわゆる内容におありになるものが、そして口をついて出てくる。
 その出てくるそのお言葉が御教えであり、私共がいよいよ徳を受け、力を受けおかげを受けて行く内容を、含んでおるところのお言葉であった、と言う事でございます。不思議にどんなに素晴らしいこと言うても、内容のない人がお話をいたしましても、それで助かると言う事はありませんね。そういう人が助かることさえ出来ればと、例えいかに思うたところで、どんなに素晴らしいこといったところで、人が助からなかったら、私は内容があるとは思われない。
 ご自身が助かられ、しかもご自身の内容がね、三代金光様の心の中にはです、本当にどれほどの信心をさせて頂いても、これですんだとは思うておられない。その有り難いおかげに対して、そのお礼の足りない、お詫びばかりをしておりますという、そういう御信心からですね、一信者のいうなら、そうした家庭の不孝をお届けなさる時に、私の祈りが足りませんでしたと。内容がそのようにして出てくるのじゃなかろうか。
 そこには、もうその年寄り両親が助かっておるね。勿体無い。金光様にあぁいうお言葉を頂いた、と言う事が勿体無いとして、もうそこにははぁといわゆる、平身低頭させにはおかずほどの、心の状態に相手を召さしめておられる。石橋先生のいうなら信心辛抱。その信心辛抱の、段々御修行がね、もういうなれば辛抱せんでもすむほどしの、いうなら信心辛抱のお徳を受けておられただろう。
 もしそこに例えば辛抱の出来ない、普通でいうならば、どうかいわねばおれない、と言う様な時であっても、それを相手を責めるのではない、それを自分自身のお粗末として、ご無礼として、一言も仰るどころかね。ただ神様に恐らくは、お詫びをなさっておられたのであろう。そこを私共は、石橋先生の御信心の内容だという風に、まぁ私はまぁ頂いております。そういう私共の先輩、又はお取次ぎを頂いておる、いうなら金光様、教祖様の、その御信心の内容がです。
 金光大神の言う事にそむかぬ様に、よく守ってと言う事はね。そういう金光様の御内容であるものが、私共にね分からせて貰え頂かせて貰うと言う事が、私共の信心の内容と言う事に、なってくるのじゃないでしょうか。昨日ある方のお参りの時に「おかげは神が授ける。道は氏子が開け」ていう御教えを頂いた。「おかげは神が授ける。道は氏子が開け」とね。金光様の御内容を頂いて、そして私共が道を開かせて貰う。
 昨日は久留米の「矢次」さんのところの謝恩祭で、私共親子手分けして参りました。熊本の松村さんのところも、昨日が謝恩祭。それであちらへいって、まぁ皆さんにまぁ話聞いて頂きましたなかに、おかげは神様が授けると仰るのは、どう言う事かというと、例えばね。昨日も2階に見事のお花がいれてございました。月下です。大変難しい花だということですが、沢山の花の材料を、あのもう根元をスッキリといけて、ほういけあげてあるお花です。もう沢山な種類があの花の材料がいれてあるわけです。
 その花の一本一枝が全部、天地の親神様がおつくりになったもんですね。おかげを授けるというなら花をいれる、花を活けるとこういうが、その花を下さるのは、天地の親神様だね。だから氏子が道を開かなきゃならんと言う事は、氏子が花の心得のある人から、教えてもろうて花の道を覚えて、その天地の親神様のおかげをいかしていく。おかげを下さったそのおかげをね、いけ上げて行くというが、私は「おかげは神が授ける。道は氏子が開け」と仰ることではないかと思うです。
 そんなに素晴らしい例えば、なら神様のお声と思われる様な教えを頂いても、その教えを頂くと言う事がね、それおい道を開くと言う事が、その道をどう開くかどう頂くと言う所にですね、どんなによいお話を頂いても、その話をどう活かすかという精進が成されて始めておかげと、いうならば道が開けると言う事が一つになって来る。御理解を頂いてね心が開けて来るね。もう開けて来ると言う所にはおかげの道が開けて来る。
 頂いても分からない事がある、それを様々に練らせて頂いておるうちに、翻然として悟らせて頂くことが、道をいうならば開いたわけである。昨日福岡の「もりあき」さんかね日にあの( ? )の注射を二本ずつもしなければならないという、もう本当にもう死を待つばっかりのような方が、戎さんの、戎浦さんのお導きを頂いて、おかげの泉を読ませて頂くことんなった。
 始めて信心のお話しをあのおかげの泉の、をもう一晩中読ませて頂いて、もう感動が湧いて感動が湧いてし方がなかった。その日からその翌日からおかげで注射をせんですむようになった。三十日目にちょっと痛むしょ、あれがあったから、それでまた始めてここにお願いに見えられて。おかげで又直ぐおかげを頂かれた。そしてもういよいよ病院におっても薬もいらん、注射もいらんという風になったから、まぁもう退院してもよいでしょうもん、と言った様な事で、やったんだろうと思います。
 先生に今いうてその退院をされた。所が二、三日前又その痛んだと。惟はもう以前のように痛んだ。それで又病院にいってその強い注射を討たれたお医者さんが、ニヤッと笑うてからほらのち、いわんばっかりにしてそれだからもう、それが非常にまぁ不愉快だった訳ですねもう腹が立った。そげん神様神様ちあんたどんが言うばってん、やっぱいよいよん時には、医者んとこにこにゃんめいがの、ちいうごたるいわんばっかりの、その様子だったとこういう。そこで私が昨日申しました事でしたけれどもね。
 例えば痛いのをとって下さると言った様な事は、もう神様わけないことなんだけれどもね、ならとって下さるのが神様のじゃないて。その事を通して神様の有り難さが分かる。生活全体が変わってきて自分が助かり、人も助かっていくと言った様ないわば、信心生活が出来る、そのことの願いをあなた方が、お話しを聞いてもね、ただ信心、金光様の信心は病気治し、災難よけの神じゃない。
 医者が例えばニヤッとしたからというて、なら腹の立つ様な事では、おかげにはならん。丁度1時の御祈念の時でしたから、もうすぐ1時の御祈念でしたから、あんただそうお願いしますよと。本当に昨日はきつからそうにして、顔色も悪うなさいました。それから1時の御祈念を頂き終わって、私は1時の御祈念をここから頂いて、その方のことをお願いしよりましたら、こう言う事を頂いたんですよ。「磨きます。改まりますで年が暮れ」と言う事です。「磨きます、改まりますで年が暮れ」という。
 もうこれはもう私を始め皆さんも胸にブスッと来る様なこれは言葉じゃないかと思うんですね。これはまぁいうならば、せんりゅうの口調ですよね。磨きます改まります。と言いながら、一年を終わってしまった、というのです。この「 ? 」さんちいったかな。もやっぱそうです、もう寒修行に一遍だんお参りさせてもらう。もう綾部さんな毎日参ってみえますから、何時も待っておんなさるのだけれども、きなさらんそうです。
 で、とうとう結局一回もお参りが出来なかった。えー、よかったらもうずっと参りますていよったばってん、一遍ももうようなったが最後、痛まないが最後参ってこない。そして、どうかと、ちっと悪か時には、なら電話かけてくる。痛みやなら、お願いに来ると言う様な事で、そのいうならば、言う事じゃないでしょうかね。参ります拝みますと言いながらいっちょん参ってこん。「磨きます。改まりますで年が暮れる」。これもう私共の、一つの信心のね、としてこりゃ頂かなきゃならない事だと。
 そして次に頂きますことがね、一番効くのは、わさびだという御理解を頂いた。お刺身のなんかの時に、使いますね、もうちょこっとばっかりで辛いでしょう。良く効くわけですよね。それで私はそのわさびが一番効くよと。あんたが始めておかげの泉を手にした時にね、始めて信心のご本などというものを始めて読んだ。して読めば読むほどに、何かが与えられた。いわゆるおかげの泉の内容だと思います。
 どんなに素晴らしいことをいうならば書いた、なら信心の御本でもね、それで例えば病気が直ぐ治るとか、ただよんで分かったという、いかにその御本の内容というものが私が有り難い、いわゆるおかげの泉のところでは、大変おかげ頂く人が多いでしょう。あれは、いわばおかげの泉の内容だと思いますね。あなたが一晩中読んで感動した。そして、感動したら明くる日から、いうならその、激しい痛みが取れたというほどしにです、わさびということはね、字に書くと、平和の和、和賀心の和だよと。
 さというのは人偏に左。というてここに御結界が左にあることを、全然こげな右の御結界が本当だと言った様な、全然しらない人ですから、左にある御結界の訳をいうて、ここでは人偏に左という字を、いわば合楽というふうに頂く。りというのは美しい。もう限りなく美しいことになれば、人がどういうても腹ん立つ様な事はありません。何時も自分の心がわさびの和であれば、何時も柔らでおれます。
 何時も自分の心が人偏に、合楽に心がむかうておる。足が向かうておる。足を運んでおる。このわさびが一番効くと。それはあなたが一番の体験者だ。おかげの泉を頂いた、感動が湧いてきた。喜びが湧いてきた。の感動はその喜びはね、いうならばわさび。だからきいたでしょうが。もうそのい話をしておるうちに、顔色が変わるほどしにおかげ頂きました。こられた時には。
 もう大変もうきつし、てこたえんと言う様な風でしたけれども、帰りはもう本当にまぁそれこそ、今度先生私がおかげを頂いた話ば、なら合楽に一時ばかり泊めてもろうちね、修行してもいいでしょうかと。そりゃよかどこじゃなかばい、と言う様な元気で帰られましたね。金光大神の言うことにそむかぬように、言う事を聞かせて頂くとです、そういうね、何時の間にか御内容がね、教祖様の御信心の御内容。三代様の御信心の御内容。または石橋先生の信心の御内容が分かってくる。
 しかもその内容が分かって来る事によって力を頂くね。度胸も出来てくるね、金光大神の言う事を、にそむかぬようと言う事はね、金光大神の教えて下さる事を本気で私共が、行じていくと言う事であると同時に、それは行じて行くうちに、何時の間にか教祖様の御信心の内容がこちらに伝って来る。それがいうならば、和らぎ喜ぶ心ともなりね、辛抱せんでもすむほどしの有り難いものになり。
 人を責めるだんではない。いうならば詫びるなら、私が神様に詫びるより他にはないと言う様な内容が段々身についてくる。それこそです、金光様があのようなご修行をして下さってあるのにもかかわらずです、信者氏子のいうならば、おかげを落としたというお届けに対して、私の祈りが足りませんでした、と言う様ないわゆる、金光様の御内容であるところのお礼を申しても、申しましてもお礼が足りません。
 その足りない、お詫びばかりをしておりますという、お詫びが、そういう時にチラッと出て来ると言う事は、もう大変なことだとこう思います。内容のないものが、内容のあるようにしておるのは、におかしいね。若い人達はいうならば内容に乏しいね。その乏しい人が、年寄りの言う事を軽うみる。こんなお粗末なことはない、ご無礼はない。していうならば力もないのにいうならばね、片で風邪を切るような態度を取る。こんなに見苦しいことはないね。
 内容がないからそういう姿勢態度に、いうなら敬白なことになって来るのです。昨夜私はもうあんな大雪でしたから、ゆっくりというか、あのまぁあぁ言ったあの、「 ? 」さんところにもう帰って、までもう十二時まわる。ありましたでしょうか。帰りをあの永瀬さんの車で帰らせて頂きましたが、もうこんな慎重なこんな態度で、あの運転をされる、あのそれこそもう大変あの滑って運転がしにくいのでしょうけども。こんなあの丁重な運転があるだろうかと。
 もう私はそれを言いまた思いして、まぁつかせて頂きましたが。これならどういう、それこそ事故なんかが起こるはずはないと思いましたね。若い人達が、事故を起こすというのは、結局出来もせんのに、出来たようないうならばね、態度をとったり軽うみたりするところに、必ずもうもう事故を起こすのは、お前だけじゃないかと、私が何時も、栄四郎に申しますが、ような事故になってくるんです。内容がないから、そういう敬白な事になってくるんですね。
 そう言う所で本当に、そうだと分からせてもろうて、いよいよ内容を作って行く事をまず先にすると言う事。言うなら金光大神の言う事に叛かぬ様にと言う事は、親先生の言われる事に叛かぬ様にであり、親の言う事に叛かぬ様にであることであるのです。そこに親の子を思う内容が伝わってくる。分かってくるのです。実意丁寧神信心と、実意丁寧というのはね、金光様の教えを頂いておると必ずなら、私は昨日永瀬さんの運転に感じたり、こんな実意丁寧な運転の仕方があるだろうか。
 私は素人で分からんけれども、それを感ずるんです。それこそ、無茶な運転をする。酒飲んで運転をする。法規を無視する。内容がないからです。「能ある鷹は爪を隠す」と言う様な事を申しますね、例えば信心の内容が出来て来ると、それこそここに( ? )だからおごってもいい、失敗をしたなら、ね、いうな、叩いてでも分からせてでもいいようなんだけれども、それこそ「能ある鷹は爪を隠す」と言う事を、それを自分の内容としてです、自分の信心の不行届きとして、お詫びが出来るようなね、信心。
 だから親としても、なら子供の例えば、不調法をです、ほりゃまたそげなこったっち言う様な事であっては、親に内容のない証拠ね。子供でもいかにも出来ておるかのようにした、けいはくな態度を取る。こげん見苦しいものはない、出来もしとらんものがいうたり、例えばお話なんか内容のない人が、お話しをしとっても、あれがもう口だけはもういうばってんから、というてから聞きよるけん、おかげ頂くだんじゃなか。かえって心の中で笑われておるね。
 けれどもその話はまずいけれども、内容のある人のお話は有り難い。直ぐおかげに繋がるね、そういう内容のある人物を目指すと言う事は、いかに金光大神の言う事に叛かぬようであり、同時に親先生のいわれる事に、叛かぬ様にであり、又は親の言う事にね、親よりも内容がない自分であると言う事を知ったら、親の言う事を聞かなければおられない、と言う事にもなってくるのじゃないでしょうか。
 そしてこれは皆、これは私のこととして頂かなければならん。「磨きます。改まりますで年が暮れ」何のために信心しておるのか。そのことをもって磨き、そのことをもって改まっていかなきゃならんのにね、またお願いをする時には、互いが改まりますから、磨きますからというて、おかげだけは頂いて、いっちょん改まっとらん。磨いてもいない。「おかげは、神様が授けて下さるのだ。
 道は氏子が開かせて頂くのだ」頂いたみ教えをどういきあげるか、と言う事によってね、人の心を打つ様な花にも、いわばいけ上げられるように。そういういきあげていく道を、教祖様は色々教えておって下さるね。そこに天地金乃神様のおかげを受けて、金光大神のお言葉によって道を知り、道を分からせてもろうて、その道によってねいかし上げていく。生かし続けて行くという生活が、お道の信心でいう、信心生活だと思うですね。
   どうぞ。